一人である事の考察

一人のお茶の時間です。

誰でも知っている事ですが、人間は一人で生まれ、一人で死んでいくものです。

人間は、たいてい家族と言う小さなコミュニティーを作ります。両親、兄弟、姉妹、夫、妻、子供、叔父、叔母が一緒に住めばみんな家族と呼ばれます。昔は長男が跡を取り、次男は分家になって独立しました。こうしてまた細分化されていき一族が広がるわけです。健功寺の枡野ご住職とお話しさせて頂いた時、昔は本家が分家の面倒を見る事になっていたと伺いました。私の父は本家の長男でした。一族の誰かが困っていると、母に命じてお金を送ったり物を届けたりしていました。お話を聞いて、父のしていた事の意味がわかりました。そう言えば、絶えず問題を起こす親戚にも手を差し伸べていました。本家を継ぐとはそのような配慮があってのものだったのです。その父も家族に見守られながらではありましたが、一人で旅立って行きました。

私の周りにも一人で生きている方、一人残された方が何人かいらっしゃいます。年齢を重ねた方もそうでない方も、今は充実した日々を送っていらっしゃるように見受けられます。しかし、昔37歳で夫を亡くした友人は「生まれ変わっても彼と一緒になりたい。」と私に何度も泣きながら訴えました。数年前に一人になった友は、今「孫の為に生きる」と年賀はがきに書いてきます。彼女たちは数年かかって立ち直り、やっと自分の生きる目的を探して人生をエンジョイしているように見えます。

でも彼女たちも、いつか一人でこの世から居なくなる事を、心のどこかで感じているのだろうと思います。

一人でいると良い事もあります。家族に煩わされないと言う事です。逆に考えると、煩わせる間柄だから家族だと言えると思うのです。しいて言えば、家族は何をやってもある種許される間柄とも言えます。しかし、社会に出て一人暮らしでもすると、いきなり「個」であることを突きつけられます。

私は子育てをしている時、子供達が喧嘩をしていてもなるべく介入しないようにしていました。子供にも子供達のコミュニティーがあり、そこで切磋琢磨して欲しいと考えていたからです。無闇に大人の常識や考えで決めつけないようにしようとも思っていました。考えを押し付けた事はありませんが、大人の私と話す時には、親に対して子供としての一応の礼儀があるとも考えていました。

私自身、子育て中にも一人である事を大事にしていました。「個」の中でしか味わえない経験、ある種の豊かさを失いたくなかったからです。人間は五感、いえ六感の生き物です。その感覚は一人である時、心の奥深くに染み入り、磨かれると思います。

別の言い方をすれば、アイデンティティの充実とでも言うのでしょうか。その感覚を失わない為に、家族の中にあっても「個」である事を忘れないようにしたいと思っていました。それは言葉を変えると、暗黙の距離を保つとも言えます。

「個」を意識すると言うことは、色々なことを突きつけられる修行とも考えます。正直に自分の心と向き合う事だからです。

家族の一人ひとりがそれぞれに卒業していった時、「個」としての鍛錬をしていれば、寂しさや辛さを少しでも豊かさに変えられると私は思っています。


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