昨年お亡くなりになった脚本家の山田太一さんとお話しさせて頂いた事があります。
随分前の事になります。娘の通う高校のイベントで来校され、高校生のためにお話をして頂きました。その時、あいにく私は別の仕事に忙しくて、その内容を聞く事ができませんでしたが、山田さんと親しい先生のお計らいで、校長室でお会いしてご本人から直接お話を聞く事ができたのです。山田さんはテレビなどで拝見する、そのままのお人柄の方でした。
その頃、山田さんは身障者の方たちとのお付き合いが多くおありだったようです。私がお聞きしたのは、「様々な方から作品が送られてきて、添削を頼まれることがあるんです。でも、身障者の方に作品の添削をして駄目なところは駄目だとはっきり言うと、身障者を馬鹿にしているのかと怒り、かえってお叱りを受けるんですよ。私は誰でも公平に接するようにしていますし、身障者の人を馬鹿にしているわけでもありませんので、本当に嫌になるんですよ。」と、強い口調でおっしゃいました。
驚きました。山田さんの怒りを聞くとは思っていなかったからです。山田さんは様々な視点から新しいドラマを世に発表してこられた方です。山田さんの作品はどれも人生を深く見つめた厚みのあるドラマです。公平である、という事を深くお考えになっているからこそのお話だったのだろうと思います。
何事にも特別は無い、真の平等と言う観点から発せられた言葉だったと思います。
実は、私の亡き母は身障者1級の認定を受けていました。治療法の少なかった昔、不治の病とも言われたリウマチになり、対処療法で何とか痛みを減らすことはできても亡くなるまで痛みと闘っていました。リウマチのせいで関節が固まり、歩くのはつらそうでした。子供の頃の母はいつもサロンパスを手首に貼り、暗い顔をしていました。唯一、股関節には症状が出なかったので喜んでいました。少し引きずるように歩く母は、不自由な左肘をカバーするためにも着物が良いと言って好んで着ていました。その母を見て私は育ちました。確かに母は身体のハンディキャップを抱えていましたが、それをカバーするように「正直であること」が一番と嘘を嫌い、人一倍の努力家でした。また、何事にもまっすぐ立ち向かい、常に勉強家でしたし、甘えを知らない人でもありました。50代近くで始めた俳句も熱心で、「俳句の材料が足りないからどこかに連れてって。」と請われ、車で湖のそばや海の見える所にドライブしました。
身体にハンディキャップを抱えた人と一口に言っても様々な人がいるのだと思います。その事を言い訳に使うことを母だったら卑怯だと思った事でしょう。
山田さんとは他にもお話ししたと思いますが、その時クローズアップされ始めた身障者の話でしたので、忘れられません。
今も障害を抱えた方達と健常者の交流がテレビなどでも取り上げられているのは、まだ解決できていない問題だからだと思います。