私がこのブログを書き始めて2年が経ちました。
初回のその日はちょうど「母の日」でした。私は随分前に母を亡くし、子供が誕生してからは母になり、今に至っています。
その私がブログで最初に書きたかったことは「『祈り』について」でした。
長く生きていくうちに自分の限界を知ることが度々ありました。その様な時にはよく「祈るような思い」で過ごしました。あらためて振り返ってみると、その「祈り」とは何なのでしょう。単に「助けてください」と言う切なる願いでしょうか。
祈りと言えばその様な時、私は手を合わせている自分の姿を思い出します。特に神社や寺院では願いを込めて手を合わせます。また、何か素晴らしくて感動した場面でも手を合わせています。手を合わせるのは心からの思いを発した時の自然な行為なのでしょう。
私は子供の頃から夜空の月や星を見るのが好きでした。特に月の満ち、欠けにはいつもミステリアスなものを感じました。月の存在や地球との関係、天体の営みについては小学校で習います。そう言う自然の摂理とは関係なく今でもなぜか月の神秘に打たれ、満月の神々しさに感動するのです。
そのような自然から受ける感動は他にもあります。例えばこの時期ですと、山の中で木々の爽やかな緑に囲まれ自分も緑に染まり、まるで自然の一部に溶け込んでいると感じた時です。同じような忘れられない光景と言えば、ベトナムから帰国する飛行機の窓から見た、地球の端から登ろうとする太陽です。まるで見た事もない赤いルビーが輝きを放っている様に感じました。その時も、私は祈るような気持ちで手を合わせていました。
このような自然の恩恵とも言うべき感動を受けた時、そのことが忘れられずに、心のアルバムに貼り続けてきました。
人と人との間でも、心を打つような出来事に遭った時、思わず手を合わせています。突然に嬉しい贈り物を受けた時の溢れる感謝や心に深く響くような話を聞いた時などもそうではないでしょうか。そうした行為は、人が自然の産物だからだと思います。
このような深い思いはそう言う出来事を感じる心から生まれます。そして、この体験によって生きていることの意味が増幅されていると思います。昨今は感動の少ない時代になっていると感じます。時代が複雑化して造形的なイミテーションの中で架空の感動を味わっているのではと思う事もあります。
つい祈りのポーズをとってしまう本能のような感動はいつまでも心に残ります。