八月に思う事

長崎の平和祈念像です。

私は長崎県の出身です。

小学生の頃、夏休みには登校日が何日かあるのですが、特に8月9日は記憶に残る登校日でした。この日は長崎に原爆が落とされた日だったからです。

その当時、長崎県は被爆地の長崎市だけではなく、県全体に平和教育が徹底していたように思います。私が通っていた小学校でも、学年によって違いますが、その日は学年ごとに生徒が講堂に集まり、先生から平和についての話を聞いた後、解説付きのスライドや映画を観ました。

内容は主に戦争、特に原爆の悲惨さを主題とした、原爆投下後の長崎の街の様子や被災者を治療している原爆病院での様子を映したものだったように思います。

当時は「長崎の鐘」という曲がラジオからよく流れていました。この曲は被曝で妻を亡くされ、ご自身も被曝による白血病と戦っておられた永井隆博士の映画の主題歌です。歌手・藤山一郎さんの歌声は心に響き、映画を観たことはありませんが、時々口ずさんでいました。永井先生は「如己堂(にょこどう)」と命名した2畳一間で子供を育てながら御最期まで執筆活動を続けられたと聞きます。

その永井先生や「如己堂」の事を知ったのも登校日でした。

死と言うものが遠く思われる小学生にも、その内容は酷く、苦しく、また寂しく心に残りました。

高学年の時の担任は若く、とてもハンサムな先生でした。その先生が教壇に立たれた日、「私は被爆者です。」と語られ、被曝で妹を亡くしたと仰った時は驚きました。口数が少なく、時にどこか暗い影を感じさせたのは、その為だったのだろうと今は思います。

戦後生まれの私ですが、当時はまだまだ太平洋戦争の記憶が色濃く残っていたように思います。

低学年の頃、学校から帰宅すると、ラジオで「尋ね人の時間」という番組が放送されていました。それは戦争で家族と離ればなれになった人が両親や子供を探すために、離れてしまった場所やその時の様子を説明して、情報の提供や本人からの名乗り出を求める内容でした。

今でも「たずねびとのじかんです。」と言うアナウンサーの声が蘇ります。私はこの放送を聞くといつもその人達はどうなったのだろうかと、想像を広げて不安になったり、希望を抱いたりしていました。

母に連れられて街に出ると、戦闘帽を被り、松葉杖をついた戦争で傷ついた傷痍軍人と呼ばれる人達が、街角やデパートの前で戦争の悲惨さや我が身の不運を訴えていました。

子供の私はその人達の事が気になり、質問ばかりして母を困らせていました。その母も18歳の時、家族と共に満州から命からがらやっとの思いで引き揚げてきたのでした。

祖父や祖母と暮らす我が家にも戦争の暗い影が残っていました。特攻隊を志願した父の弟が、沖縄の島で亡くなっていたからです。鴨居の所に幾つかの遺影が掛けてありましたが、その中にその叔父もいました。父はお酒が入ると、よく優しかった弟の話をし、懐かしんでいました。父も戦地に赴いたようですが、前線に行く前に移動になり、結局戦わずに済んだと言う事でした。

そのような環境で育った私でしたが、大学受験で上京し、東京に住み始めて疑問に思った事があります。東京には原爆の投下された時間に黙祷を捧げる習慣が無かったことです。原爆投下を知らせるサイレンがなる事もありません。それまで私はこの日の黙祷は全国でされているものと思っていました。

今年は戦後77年、8月6日の広島の平和記念式典にはテレビをつけて815分に家族で黙祷を捧げさせて頂きました。8月9日、長崎に原爆が落ちた112分には時計を見て、出先で西の方を向き黙祷を致しました。今年は黙祷をしながら平和を維持する事の難しさを考えていました。ロシアのウクライナ侵攻、決して許せるものではありません。戦争のない日本の平和が末永く続く事をいつも願っています。

広島の原爆ドームです
広島 原爆ドーム

私は8月6日と8月9日の日を自分なりに平和を考え、祈りの日としています。


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