優しさについて

お花畑の少女です

「あの人は優しい人ね。」と「優しい」と言う言葉は人の評価に使われます。

私は学生だった頃から「本当の優しさとはどう言う事なのだろう。」と考えながら生きてきました。「優しさ」とは実は奥の深い難しいことかも知れないと今も思っています。「優しい」と言う言葉はあらゆる面で使われます。例えば、「優しい色使い」とか「優しい音色」とか。ここでは人の行為について使う時の限定的な考察です。

発端は昔、私の友人だった人との会話にあります。私は彼と哲学、音楽、絵画、社会問題等々、様々な話をしていました。ある時、何気ない会話の中で「本当の優しさとはどう言う事を言うのだろう。」と彼が言ったのです。現代で言うと、「超、可愛い!」って良く使うけど可愛いって本当は何?みたいな事です。

どんな言葉も大切なのに、考えなく、たやすく口に出し過ぎるのではないかと言うのです。

時代は何度目かの激しい学生運動の波が収まってきた頃でした。一時期は学生で活動をしていない人はノンポリ(政治的な問題に関心の無い人)と呼ばれ、バカにされる風潮さえありました。私たちが問題とした会話も確固とした考えが根元を失いかけていたから敢えて取り上げたようにも思います。

「人が石につまずいて転び怪我をしたとする。誰かが、駆け寄って声をかけ、傷の手当てをした。」

「見ていた人が『あの人は優しい人ね。』と、言うだろう。確かにその行為は自然で、人の心を温かくするよね。」

「でも、その様子を見ていたある人がそっと石を片付けたら、それは人には知られないけど、もう転ぶ人はいないよね。」

「本当の優しさとはそのようなものかも知れない。」

そんな内容だったと思います。

その時の会話が耳に残って、優しい人間でありたいと思うと同時に、「優しい」とはどう言う事だろうと自分に問い続けてきました。分かりやすい優しい行為と、なかなか優しさに気づかれない行為、どちらも人に対する思いは同じだと思います。なぜなら元々「優しさ」とは人をあるいは物を思いやる気持ちから発した言葉だからです。でも、気づかれない優しさを選ぶのは事によっては勇気を必要とする事でもあると思います。

昨今は「アピールする」と言う言葉が横行し、どのような事も人の評価を受けなければ意味がないと思われる風潮があります。

何と言いますか、そこに打算を見てしまう私はひねくれ者かも知れません。でも、素朴な発想なくして「優しい」と言う本来の心は生まれないと思うのです。別にアピールなんてなくて良いと思います。それとも、一種の照れでこのような発言があるのでしょうか。とにかく、この素朴さまで計算されるのは御免です。

断捨離と言われ、物に対してシンプルであれと提唱されていますが、心もシンプルであって良いと思います。元々日本の生活スタイルはシンプルです。欧米のデコラティブなスタイルとは違います。シンプルは「簡素な美」に繋がります。

「優しさ」は人と人との架け橋になる行為であり、言葉であり、無限に広がるところがあります。元々広がる源は目に見えない「人の心」ですから、繋がっていくのです。

「おはよう」と言う挨拶も心を込めて優しく言ったら、ドアを閉める時もなるべく音がしないように静かに閉めたら、物をテーブルに置くときもそっと置いたら、人や物とのコミュニケーションの感じが変わるように思うのです。


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