日本人で宮沢賢治の名前を耳にした事がない、と言う人はいないでしょう。
宮沢賢治の作品をモチーフにした童話やアニメ、演劇は今でもどこかで取り上げられているようです。中でも有名な「雨にも負けず、風にも負けず」で始まる詩は多くの人を勇気づけています。また、「風の又三郎」は忘れられない童話です。他にも「セロ弾きゴーシュ」や「注文の多い料理店」など個性あふれる作品が多数あります。
最近、ふと気になって「新編 銀河鉄道の夜」を読みました。それは、私が子供の頃に読んだ宮沢賢治の童話たちは、デフォルメされていたものではないかと思ったからです。
子供の頃、親から与えられた宮沢賢治の童話は多分に教育的な内容になっていたと思います。
例えば、「セロ弾きゴーシュ」。この物語を簡単に紹介すると、町の楽団員のゴーシュはいつも音をはずしたり、間違ったりして、楽長から注意をされていました。毎晩ゴーシュは練習に励むのですが、なかなか上手くなりません。ある晩、猫が現れて「トロイメライ」を弾けと言うのですが、その生意気な態度に腹を立て「インドの虎狩」を猫が逃げ出すほどに激しく弾きます。翌晩にはカッコウが現れ、ドレミファに合わせてカッコウを弾けと言われます。ゴーシュはふと本当のドレミを歌っているのはカッコウではないかと思います。また、翌晩はタヌキが訪ねて来て「お父さんに習って来いと言われた。」と言い、タヌキのハラ鼓に合わせて弾く事になります。そして、最後の夜には野ネズミの親子が現れ、ゴーシュの弾く音で病気を治して欲しいと懇願するのです。馬鹿馬鹿しいと言いながらもセロの中に小ネズミが入り、セロをゴーシュが弾くと病気が治ったと喜びます。さて演奏会当日、ゴーシュは無事にセロを弾き終え、楽長に言われてアンコールで「インドの虎狩」をソロで演奏し拍手喝采を受けます。
私が子供の頃に読んだ童話では、はっきりと猫がゴーシュの演奏にどんな影響を与えたか、カッコウは正しい音階を教えた等、動物たちのゴーシュに対する役割を説明していました。そして、動物たちの力でゴーシュは成功したという内容になっていました。でも今回読んで思った事は、動物たちの登場はゴーシュの音楽的な成長のきっかけを作ったに過ぎないのではないかと言う事です。動物に最初から意図があったのでは無いと思いました。また、楽長からアンコールで演奏しろと言われた所は何かすっきりしません。大人の私には、あれだけ厳しい注意を受けていながら、ゴーシュは素直に喜んだのだろうか、と言う疑問です。
宮沢賢治の作品を折りに触れて色々と手に取ってきました。そして子供向けに直された童話ではなく、原本で読んでみたいと思っていました。
今回この本を読んでみて、なるほどと腑に落ちた事の一つが、宮沢賢治の作品には随所に修正箇所や白紙があると言う事です。それは、賢治が作品達を書く時、常に何かに向かって試行錯誤していた事を意味するのではないのでしょうか。決して教育的な作品を書こうとしていたのでは無いと思います。
彼の童話は独自な世界観から生まれたものであり、一つ一つの作品はその中からつぶやきのように生み出されたものではないかと思いました。賢治の作品を読んだ後、割り切れない思いが残るのはなぜでしょう。例えば、風の又三郎はどこへ行ったのか、ゴーシュもセロが上手になって良かったね、では終わらない気がするのです。
時間の経過とともに賢治の作品は思いを反映してか、変化していると思われます。そして中には変化の途中で出版されてしまったものもあるのではないのでしょうか。そのような事を今回読んだ作品達から感じました。
私が作品を読みながら感じた事のもう一つは、賢治の作品は読むのではなく味わうものではないのかと言う事です。
本来は何かを意図して書かれたはずの童話たちですが、一般的な童話と言う言葉では釈然としない内容、哲学を感じさせる作品、これはある種の宗教ではと思わせてしまう、どれもどこか遥か宇宙を目指してか、あるいは賢治の世界を回遊しているように思えるのです。その回遊とは賢治の度重なる推敲の途中だからそう思うのかも知れません。又は賢治自身が人として生まれた原罪を背負うが故の悲しみやアンニュイを知らず知らずのうちに作品に投影しているとも感じます。銀河鉄道は夢の中でジョバンニが大好きなカムパネルラと宇宙を汽車に乗って旅をする話ですが、それは生と死の話でもあるのです。
年を重ねるたびにその作品の味わい方が変化する、それが宮沢賢治の童話だと思います。しかし、どの作品にも何らかの希望を感じてしまうのは私だけでしょうか。子供の読み物だと思わずに、宮沢賢治の作品のどれか一冊でも手に取ってみられませんか?
宮沢賢治の童話には大人としての読み方があると思います。
出典 新編 銀河鉄道の夜 宮沢賢治著 新潮社
ESPOIR 〜希望〜をもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。