ふと、考える事はありませんか?
本当は私って何をしたかったのか、どこかでチョイスを間違えたのではないのかと。
子育てや仕事で忙しかった頃は、私にそのような事を考える時間はありませんでした。今しなければいけない事に只々夢中で取り組んでいなければなりませんでしたから。
人生と言うと、大袈裟かもしれませんが、10代後半から20代前半にかけては、誰しも未来に関して不安や恐れと言った迷いの時期を経験するのではないでしょうか?自分が何者か?何がしたいのか?明確な将来のビジョンを持っている人は希だと思うのです。その時期はそれまでのわずかな経験や体験から幻の未来をただ見つめているのだと思います。
大学に進んだからと言って、希望の大学とは限りません。私も希望の大学には進めませんでした。でも、当時は学びたい事を見つけ、がむしゃらに勉強し、本もさまざまな種類を次々に読み、自分の頭で考え知識を整理していきました。今思えば、一つの事だけに熱中できた貴重な時間だったと思います。私は詩を勉強していました。数年前にお亡くなりになった有名な教授に可愛がって頂き、その時の授業は楽しくて仕方がありませんでした。
しかし、私は教授の後押しとは裏腹に詩人には向かないのではないか、とどこかで思っていました。言葉や知識、アイデアだけでは詩人として続かない事が分かっていたからです。縁があって試験を受けて劇団に入りました。主役をいただいておりましたが、これも違うと思いました。私は表現する何かを求めてはいましたが、自分のアイデンティティに固執していました。自分を少しでも手放さなければならない仕事は向かないのではと思いました。出版社で原稿が認められ、しばらくエッセーを書いていた事もあります。でも結局、父の勧めるお見合いで結婚しました。
子供が生まれた時、私の想像力が自然と花開いたように思います。子供は無垢のキャンバスです。心から向き合い、その子の特性を見ながら子供に愛情というエッセンスを持って一緒に何かを描ければと思いました。子供達の成長に従って私のコミュニティも変化していきました。その都度多くの人と関わり、私自身も成長したのでは、と思います。
子育ては誰でも出来る、と簡単に考える人もいます。でも、子供の人生に関わるという事は、子供の経験する喜びや悲しみ、怒りなどを一緒に経験する事です。子育ての中で一番私が堪えたのは、いじめの問題です。そこでも、子供を良く観て変化にいち早く気づく事がどんなに大切かと気付かされました。
仕事は持っていたいと思っていましたので、資格を活かしてお茶や礼儀作法を教えました。何度もお茶会を開いているうちに、ある会社から誘いがあり、テーブルコーディネーターとして仕事をするようになり、その後カタログの製作、マーケティングをして物作りに参加するようになりました。その仕事にも全力で向かいました。
「本当は私って何がやりたかったのか?」と言う疑問は、今こう考えています。その時その時に自分の心に正直に向き合って考え、行動した事がやりたかった事ではなかったのではないのだろうか。
人生って瞬間瞬間の積み重ねです。名のある事を成し得なくとも、自分の心と向き合い与えられた環境で精一杯生きてきた、「しっかり生きる」と言う事がやりたい事の筆頭ではないかと思うのです。私は何かになりたかったのではなかった、生きることを全うしていく事が一番大切なのだと、今はそう思っています。
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