隠れキリシタンだった祖母の話

長崎の教会、大浦天主堂です

私の母方の祖母は41歳と言う若さで亡くなりました。ちょうどその時、母のお腹に私が居たそうです。祖母は私の存在を知り、私の幸せを祈りながら逝ってしまったと聞きました。私は父方の祖母には寵愛と言えるほど可愛がって貰いましたが、母方の祖母に会う事はできませんでした。

私が3歳の頃、いくらか下の方が焦げた写真を、母が本箱の上に飾っていました。つま先だって何度か見た記憶があります。のちにその写真は、祖母が亡くなった後、後妻が祖母の物を全て焼き払い、母が燃え滓の中から拾っていた、たった一枚の写真だったと聞きました。

祖母の祖先は平家の流れをくみ、長崎の辺鄙な場所に落ちのび、後には隠れキリシタンとしてひっそりと暮らしていたそうです。この話は祖母の実家を母と訪ねた時、大叔父から聞きました。確かに仏壇の奥には観音様に似せたマリア像が置いてあり、手に取って見せて頂きました。オラショも大叔父に読んで貰いました。

その大叔父に、曽祖母と祖母が写った写真を頂きました。恐らく当時流行していたと思われるポンパドール風のひさし髪に着物姿で椅子に座った曽祖母は美しく、祖母はまだおかっぱ風の髪型をした可愛い子供で、曽祖母の膝にもたれかかっています。

祖母の名前はスガと言います。祖母は、当時にしては珍しく英語が堪能だったようで、母は英語を祖母から習ったそうです。

母から祖母の思い出話を幾つか聞きました。

戦後満州から引き上げて来て、食べる物も乏しく苦労をしていた頃の話です。母に言わせると、お隣に欲深い意地悪なお婆さんが住んでいたそうです。祖母は珍しいものや美味しいものが手に入ると、そのお婆さんに一番先に持っていくと言うのです。母が不満を言うと「あなた達はこれからいくらでも食べられるでしょ。」と言ってお隣へ向かったそうです。

生活の為に、経験のない畑仕事など辛い仕事も率先してする祖母だったそうですが、ある時、若い娘さんが悪い男に騙されて、自殺覚悟でいなくなってしまう事件があったそうです。村中総出で探したそうですが見つからず、皆が諦めた時、祖母は再び一人で鎌を持って深い山に入り一晩中捜し回り、無事に娘さんを見つけだして、自宅で介抱したそうです。

「母にはキリシタンの血が流れているから、特に人の不幸を黙って見てられないのよ。」母はその時、話をそう締め括りました。

私は祖母の形見を持っています。祖母が生前、母に譲った着物を、母が道行(着物の上に羽織るコート)に仕立て直したものです。細かな模様はもう薄くなりよく分かりませんが、漆で描かれた珍しい物だそうです。着物に風を通す虫干しの頃になると、生地が弱って柔らかくなり、肌に馴染むその道行を体に当ててみます。

祖母が逝った年齢より随分長く生きている私です。

私は祖母のように人に優しく生きてきたのかしら。窓を吹き抜ける乾いた風を頬に感じながらその様な事を考えてしまう今日この頃です。


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