「日本地図を見ると列島のほぼ中央を山脈が走っています。」と小学校で習った記憶があります。
この「山」と言う言葉、子供の私には身近でした。生家は山のふもとにありました。その生家からさらに坂を下ると、バスが通る公道に出るのです。日曜日になると、祖父や父は戦時中に山を開墾して広げた畑にいる事が多く、昼近くになると母に「お父さん達を呼んできて。」と頼まれました。畑の向こうには、一人では入ってはいけないと言われていた山がありました。
このように、生家は高台にあり、庭先からまっすぐ向こうには田んぼをいくつも隔てて居並ぶ山が見えました。山は身近で感覚的に理解していたのですが、「森」とか「林」と言うのがよく分かりませんでした。例えば、童話の「赤ずきん」の話に出てくる「森」には、高低差のニュアンスを感じないのです。でも、大人になりドイツのアウトバーンを走った時、平地の向こうの方に黒い木々のかたまりが見えました。そのかたまりから少し離れた所にまた黒いかたまりがあるのです。その時、やっと森を抜けてと言う感覚がわかりました。確か、赤ずきんちゃんは森でオオカミに会い、森を抜けておばあさんの所に行く話です。この話に「森」は出てきますが、「山」と言う訳語は出てきません。
私が日頃口にしていた「山」とは何なのでしょう。
辞書で調べてみると、「山」はまわりに比べて土地が盛り上がって高くなっている所とあります。つまり高低差の事です。「森」は木々が密集して生えている自然の状態を表す言葉だとあります。また、山林や平地など場所を問わないとあります。「森林」は「森」よりもさらに広範囲に様々な樹木が生い茂っている様子を指すとあります。「林」は広い範囲に木が多数生えた所となっています。「林」は人工的な感じです。
私が子供の頃「山」と言っていた場所は「森」といっても良いのだとやっと理解しました。
私はフィンランドに行った事があります。あの小林聡美主演の「かもめ食堂」の舞台です。確かに森と言うニュアンスにふさわしいどこまでも深い森と美しい湖がありました。その時、「山」を「森」と言うか「山」と言うかは感覚の違いや視点の違いだとわかりました。「赤ずきん」の載っている「グリム童話集」はドイツで生まれた作品です。ドイツを巡って「森」のイメージをつかめて「赤ずきん」がより理解できたように思います。
私が「山」といっていた「森」。10歳の頃、一人で登って行きました。
と、申しましても入り口で大変なものに出くわして足がすくんでしまったのです。「雉」(きじ)です。丈の高い草むらからひょっこり現れた「雉」の親鳥の毅然とした美しさと大きさに圧倒されました。その時、様々な美しい羽根の色を一瞬で目に焼き付けたと思うのですが、威嚇されていて、私の記憶に残ったのがくっきりとした深みのある綺麗な緑色でした。そしてまっすぐに私を見た時の一歩も引かない凛とした目と佇まいに子供の私はただただ気おされてしまったのです。親鳥は後ろに子供を従えていたように思います。あとになって、時々聞こえていた「ケーン」と言う鳴き声が「雉」の声だ、と母に教えて貰いました。
それから少し経って、父と一緒に薄暗い「森」に入っていった時、その温かな静けさに打たれました。
鳥の鳴き声はするのですが、それは遠い空の彼方から降るように聞こえてきて、樹木の間を風が微かに流れ、良い匂いがしました。秋の事だったのでしょう。その時、私は父とキノコを取りに行ったのです。自生した椎茸だったように思いますが、何のキノコだったのかはっきりとは覚えていません。子供の頃の私は曖昧ながらその「山」と言う言葉をたくさんの樹木の茂っている「森」と言うイメージでも捉えていたようにも思います。
父のような「森」。そう思う時があります。
時々父と一緒に入って行く「森」には怖い動物や蛇もいるようでした。でも、あの「森」には力があり、優しさがあったと思い出します。今でも、大きな樹木のカサカサした幹の感触が手のひらに蘇ります。現在は山の半分以上が開発されてしまいました。少しだけ残った我が家の小さな森に「ケーン」と言う鳴き声は聞こえません。あの美しい「雉」はどこへ行ったのでしょう。
心に生き生きと今も残る「私の森」は秘密と驚きに満ちていました。
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