ちょっと前、と言っても昭和の時代になるのでしょうか。よく耳にする言葉に「そんなこと言ったら恥ずかしい。」とか「人前でそんな恥ずかしい事を。」とか「恥ずべき行為」とか「恥」と言う言葉は頻繁に使われていたように思います。この頃その言葉はなかなか耳にしません。
そんな事を思っていましたら、草彅 剛さん主演の「ミッドナイト スワン」でトランスジェンダーに苦しむ主人公が「恥ずかしい」と言う言葉を使っていました。性転換をした後の後遺症で横になって苦しんでいるシーンです。服装のはだけた格好を姪に見られた時のセリフです。昨今は肩を出し、イタリアの女性のように胸を深く開け、お腹を見せるファッションが流行ですから、見られて恥ずかしいと言う感覚は薄れたのかしらと思っていました。ですから、この「恥ずかしい」と言う言葉は印象深く残りました。
「恥」とは辞書には失敗などを他人に知られ、名誉を失ったと感じること。また、その失敗。とあります。「恥」の感覚は心の深いところに溜まっていて溢れ出るものだと私は感じます。
武家社会ではその「恥」のために命を落とす事もありました。歴史小説にはそのような題材がよく取り上げられています。それは、一人の武士が背負っているものが家名という家だったり、一族だったりするからです。「恥」の為の責任の取り方も命を賭けるのですから半端ではありません。
日本の文化は「恥の文化」だと言われました。この言葉はアメリカの文化人類学者であるR.ベネディクトが「菊と刀」の中で使った用語です。他者の感情や思惑、自己の対面を重視すると言う行動様式に特徴があると言うのです。しかし、時代は刻々と変化し続けています。
現代に生きる私達は皆とは言えませんが、族を離れ、個々に生きる事を許されています。
ですから対面を保つと言っても自分の為であることが多く、ドラマで観るような汚職の責任を一人で取ることなど実際は稀です。しかも責任を取る人が「恥」という感覚でいるとは限りません。どちらかと言うと「責任を取らされた」とどこか他人事のようです。
族を離れ、自分流に様々な情報でこじつけながら個で生きている時代に「恥」の感覚は残っているのでしょうか。
何かの制約や相対するものに対して「恥」の感覚はあるのだと思います。私の中に「恥」の感覚はあるのかしらと考えますと、持っていたいと言う答えがあります。なぜそうかと申しますと一つには子供の存在です。今の私は「子供に恥じない生き方」をしたいと思って生きてきました。もう一つは本来的に「恥」の感覚は必要だと考えているからです。
族に縛られると言うような「制約」は「自由」の反対の言葉ですが、自由自由と叫んでも羽根がありませんのでどこまでも自由の風に乗って飛んでいく事はできません。何事も多少の裏腹の中にあって生きているのだと思うのです。
自分自身を本来の自分に繋ぎ止める意味で「恥」の感覚は必要だと考えます。
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