私が陶磁器の企画の仕事をしていた頃の話です。
その窯主ご夫妻はいつもにこやかに私を迎えてくださいました。佐賀県有田の先にあるその磁器の窯元は「古伊万里」を得意とし、有田焼の歴史や知識はほとんどこの窯主に教えて頂きました。私は何日も窯元に通いました。窯主との陶磁器の話は尽きず、外が真っ暗になって帰宅することも多々ありました。
窯主は私に教える事が楽しい様子で、近隣でみつかった古伊万里の破片の説明から始りました。陶片は白磁とは言えない土味を残し、うっすらと呉須のあとも見えます。このような初期の伊万里は生地に鉄粉や異物が混ざっているものが多いのです。恐らく1600年代、朝鮮の陶工李三平による有田の泉山での陶土発見の頃、その周辺でも様々な試みがなされていたのでしょう。今でも窯元周辺では様々な形の陶片が見つかると言います。
次には絵柄の残っている陶片を見ながら「これは何人の手によって描かれたか分かるね。」と言う質問です。線の太さ、呉須の濃さ、良く見ると単なる線引きにも違いがあるのです。これは有田が分業制をとっていたあかしです。私は昔にどんどん引き込まれるような不思議な感覚に落ち入りました。
最後に渡されたのは柴田コレクションの図録です。見て勉強しなさいと言うのです。そして、その中の意匠を使って自分の好みの器を作れ、という宿題が出たのです。
困りました!余りのストレスに胃が痛みます。私が手にしているのは初期伊万里の図録です。何日もその詳しく写された図録を見つめました。鳥や魚と言った自然を題材にした絵柄が多い事、最初は陶土自体に鉄粉などが混入してそれが器の雰囲気を優しく、温かく見せている事が分かりました。結局、桔梗縁の浅めの鉢に枝に止まった鳥の絵柄を描いて貰いました。私がお願いして最初に作って頂いたのが冒頭にある写真の器です。
窯主はいつもエネルギッシュで明るい人です。そんなご主人を、微笑みを絶やさない奥様が温かくフォローしている、そんな窯元の印象をいつも好ましく思っていました。そして、私は奥様とも親しくさせて頂くようになりました。
その後、その窯主とは疎遠になっていたのですが、奥様の訃報を知ったのは亡くなられて4年経った時でした。まだ50代の若さだったそうです。驚きと悲しみで胸がいっぱいになりました。私のパソコンには今でも奥様と交換したメールや写真が入ったままです。お顔だけでなく、お気持ちの本当に優しく、可愛らしい方でした。今月は奥様が逝かれた祥月命日にあたります。
窯主は今も新たな挑戦をしながら素敵な器を作り続けています。以前から
「都会の人に、ここの美味しい空気と輝く太陽を器に込めて届けたい。」と言われていました。
我が家の食器棚にはこの窯元の器が多く並んでいます。
この窯元は「貴祥窯」と言います。窯主は小柳さんとおっしゃいます。小柳さんの窯で焼かれた器はどれも端正で品がよく、使っているとこちらも思わず姿勢を正される様な気がします。
有田に行かれたら、少し足を延ばしてこの窯元をお訪ね下さい。小柳さんと話すときっと焼物に対する熱風のような思いがあなたに伝わり、歴史の中に踏み込むような不思議な体験をなさる事でしょう。
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