私が経験した旧東ドイツでの出来事は、このブログを始めた時から是非書きたいと思っていた事です。
私が旧東ドイツを訪れたのは、有名な『壁』が壊される数ヶ月前です。東ドイツに行く目的はマイセンの陶磁器の工場を訪ねる為でした。私はまだ若く、陶磁器に関しましても今ほどの知識を持ち合わせていたわけではありません。ヨーロッパ各地の名だたる陶磁器工場の現地視察という名目での旅でしたが、半分は歴史ある欧州を訪ねるという楽しみでした。
西ドイツから東ドイツにバスで入国しました。恐らく、入国した途端の出来事だったと思います。バスの回りを10人くらいの長い銃を抱えた兵士が取り囲みました。ガイドがすぐにバスから出て兵士と何かを話していました。
いきなりその内の2名の兵士が銃を持ったままバスに乗り込んで来て、乗客全員の顔を見ながらパスポートの提出を求めました。
ライン川下りやノイシュヴァンシュタイン城見学、ロマンティック街道を旅するなど西ドイツの美しい古都や古城などを楽しんで来たばかりの私は、いきなり緊迫した緊張感に襲われました。乗客の2、3人がトイレに行きたいと申し出ると、許可されましたが、銃を持った兵士が一人ずつ引率して行きました。戻ってきた人は口々に怖くてたまらなかったと言っていました。その間もバスの底を鏡に写して、違法物や危険物を持ち込んでいないかの検査が続きました。
私は『壁』の意味と怖さを深く知る事になりました。
当時の東ドイツは荒んでいました。バスはマイセン陶磁器の展示場まで町の中を縫うように進みます。色味のあるものと言えば、小さな庭先にペンキで色付けした小人達を見るくらいです。お店はどうかと言うと、コンクリート建物の一角がほのかに明るく、ここで何かを売っている様子です。しかし通りの両側は使い古した灰色の建物ばかりが続いていて、暗く重たいものを感じました。
そのような町を抜けてマイセンの展示場に着きました。意外にも観光客が大勢集まっていました。
展示場に入るとすぐの頭上に、マイセン陶磁器の得意とするテクニックのひとつである磁器の花を造り組み合わせて出来た素晴らしい大きなシャンデリアが目を惹きました。
マイセン陶磁器には他の洋陶に類を見ない、白磁へのこだわり、色絵つけの素晴らしさ、磁器による彫刻、という特徴があります。私は日本の有田に見られる白磁や上絵付け、平戸藩窯三川内焼きの彫刻などを思い出しながら展示場を見て回りました。
マイセン陶磁器は欧州でいち早く中国・景徳鎮や日本の古伊万里にある白磁の美しさに魅せられ白い器(白磁)の開発を成しえたところです。私達は歴史ある作品たちや今人気とされている陶磁器を丹念に観た後、ペインティングルームとでもいうのでしょうか。絵付けの部屋を見せてもらう事になりました。ペインターは多分5人だったと思いますが、それぞれが皿や壺に絵付けをしていました。
その時思いましたのは、ペインターがまるで油絵を描く絵描きのようだったという事です。下絵はあるのでしょうが、すごく自由な感じで筆を運んでいるのが印象的でした。
マイセン陶磁器は権力者の野心や保護を受けて成長して来ていますが、日本の陶磁器も藩主の意向で発展しています。江戸時代、平戸藩では藩内に窯を作り、掛け軸や襖に絵を描く絵師が暇に任せて壺や大皿に絵を描いたと言います。その古平戸と呼ばれるものはどれも芸術性が高く美しく、深く感動した思い出がありました。同じような感動をマイセンでも受けました。
東ドイツに入った時の恐怖、緊張感、一転してマイセン陶磁器の展示場で観たクオリティの高い陶磁器たち、どちらも権力者の傘下の出来事です。その後私は銃で追い立てられたような衝撃を長らく忘れることができませんでした。
旧東ドイツの人々は一途に『希望』だけを持ち続け、息を殺して生きていたに違いありません。
その半年後くらいだったと思います。『壁』が壊されている報道をテレビでリアルタイムに観たのは。ドイツはどんどん変化して行きました。東ドイツ出身のメルケル首相が登場し、ドイツはユーロ圏の指導者的地位を築きました。
国として本来の自由を得たドイツ連邦共和国です。
私の手元には、その時購入した双剣マーク(カップの底に記されたマイセン陶磁器の作品の証)の入った紅茶カップとソーサー、ボンボン入れにしている蓋つきの小物があります。理不尽な成り行きで国を分割され、再び本来の国を取り戻したドイツの歴史に思いをはせながら、大切にしているそのカップを取り出して見るのです。
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